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愚痴を聞いてあげたいけど聞けない、愚痴を言う人に疲れたら?

愚痴を言う人に疲れてしまうことはありませんか?

本当は聞いてあげることができたら、相手は喜んでくれるだろうけど、愚痴を聞いていると嫌な気分になってくる、とか。

でも、愚痴を愚痴と思わずに聞くことができる人もいます。その人は何故、そんな風に愚痴を嫌がらずに聞くことができるのかということがわかったら、自分が楽になれそうですね。

相手を諦めるという選択肢

愚痴を愚痴と思わずに聞く方法の前に、相手を諦めてしまうという選択肢があってもいいのだと思います。

友達が会うと愚痴ばかりで何だか疲れる、そう思った時に無理に愚痴を聞こうとしてもきっとうまくいきません。愚痴を愚痴と思わずに聞くためには、まず、相手の話を本当は聞いてあげたいという心がなければ、何をやってもきっとうまくいかないと思うんです。

それに私は愚痴は必ず聞いたほうがいいですとは言いません。

それを続けていって心が滅入ってしまう方もいます。今、自分も大変な時に人の愚痴を聞けるかと言われると、恐らく殆ど方にはそれは難しいと思います。

そんな時はまず少し距離を置いてみてもいいのかも知れませんね。そして、自分の心に余裕ができた時に愚痴を愚痴と思わずに聞いてみようと思える自分がいるかも知れませんから。

相手が職場の方であれば、どうしても顔を合わせなければならないわけですが、愚痴は聞く人がいなければ相手も話せないわけで、そんな時は笑顔で「ごめん、今、仕事忙しいんだ」という風に「聞かないという選択肢」もあっていいのかも知れません。

嘘も方便。それはお互いのためだと思います。

愚痴に疲れる時、疲れない時

同じ愚痴であっても、聞いていて嫌な気分になることもあれば、そうではない時もあると思います。

それはつまり、相手によって違うということなのかなと思います。

例えば、夫や妻の愚痴にはうんざりすることはあっても、義父や義母が言う愚痴には、「そうですよね~、わかります」なんて言えたりすることがあったり。

何が違うかというと、距離だと思うんです。

対人関係の距離が近くなるほどに、人は相手を自分の価値観で見ようとしてしまうようです。逆にその距離が遠くなるほどに、自分の価値観で相手を判断しなくなります。

夫や妻の愚痴に嫌気がさすのは、自分の価値観で相手が言っていることを判断しようとしたからなのかも知れません。

それは相手の話に「良い・悪い」とか、「正しい・間違っている」という評価をしたからで。

一方、義父や義母の話にイライラしなかったは、義父や義母が思ったことを「評価しなかったから」だと思います。

相手の味方でいてあげるということ

人は話を聞いてもらうだけで救われることがあります。

愚痴を言いたくなることは誰にでもあって、そんな時に話を聞いてもらえるだけで心が楽になれることってあると思うんです。

この人は辛かったんだ、嫌な思いをしたんだ、そんな気持ちになれたら、愚痴は愚痴ではなくなるのかも知れません。

この人の味方でいよう、そう思うと、もしかしたら、愚痴は愚痴ではなくなるのかも、知れません。

誰かの味方でいるには、その人に寄り添う必要があると思います。本当の意味で相手に寄り添うには、相手の気持ちになってあげる必要があります。

それは相手の気持ちで相手の考え方で、相手の価値観でその物事を考えるということであり、それが少しでもできた時に、「大変だったんだな」という気持ちが生まれるのかも知れません。

答えはいらない

愚痴を愚痴と思わずに聞けるようになっても、もう1つ落とし穴が待っているのかも知れません。

それは相手のその問題を解決してあげたいと思ってしまうことです。

それは優しさから来るものだと思いますし、時にその思いが人を救うこともあると思います。でも、愚痴を言っている時、人は「ただ聞いてほしいだけ」なのだと思うのです。

相談という形はとっているけど、実はただ聞いてほしいだけ、わかって欲しいだけだったということもよくあります。

でもただ聞いてほしいだけなんて、自分には何の意味もないじゃないですかと思われるかも知れません。

そうですね。でも、その相手の方はそれで心が楽になれるなら、自分にとっても嬉しいことになることもあります。

でも、そう思えるには心に余裕がある必要があるのかも知れません。だから、心に余裕のない時は愚痴は聞けない、それは仕方がないことだと思います。

そういう意味では愚痴を愚痴と思わずに聞くには、まず相手の話を聞いてあげようと努力するよりは、自分が心に余裕のある人になる方が先決なのかも、知れないですね。